失敗とは“何もしなかったこと”

小さな品質管理費用を怠って、社会的な大きな被害につながる。 事後的には“ありえない”と評価されることが、なぜか事前には無意識的に、あるいは意識的に小さなことだと見過ごされ、大きな被害を引き起こす。 このような例を耳にすることがある。 会社が倒産した例もあれば、多くの被害者、時には死者を出したケースもある。 両手ぐらいはビジネスマン・ウーマンであればすぐ思いつくのではないだろうか。

不思議なことは、ケガ人やましてや死者を出そうなんて意図的に思う人はいない、のにこういうことが起きてしまうことである。 これぐらい大丈夫マインドが悪さをするケースやそもそも悪意に満ちていたケースもあるだろう。 ただ、多くのケースは、起きた場合の被害を感じられない・想像できないから、自分達としては一生懸命排除しようと行動したつもりであったのに、起きた、ではないだろうか。

将来像を明確に意識・想像し、その実現 (或いはその回避) に向けて現在をコントロールする。 なんと難しいことか。 これに反し、ビジネス環境において比較的容易にコントロールできることは“コスト”である。 コストを管理し、削減することは経営としては必須。 競争力を高めるためにも、資源の効率化 (=社会への貢献) の意味でも必要不可欠。 そんなことを考えなくともコスト削減はボトムラインに直結。 経営陣はコスト削減に常にドライブされる。 つまり、見えない存在の将来の安心・安全と、トレードオフの存在である見える存在の今そこにあるコスト。 どちらが人間をコントロールするかと言えば、コスト、コスト、コスト。 “品質重視”や“顧客重視”と社内で強くコミュニケーションされていても、トレードオフ関係にある“コストはどうでもいい”、と言われない限り、コスト意識が勝ってしまう。

従い、次のように考える組織が望まれる。 “事故は起きることもある。 しょうがない面もある (オフレコだが) 。 ただ起きたら公表する。 批判をうける。 原因を調べ、対策を検討・実行し、再発させない。 社内 (あるいは社会) で学びとして共有する”。 ただ、保身に走る組織では次の様になりがち。 “公にさせない。 公になる前になんとか沈静化させる。 社内でも一部の共有に留める”。 これでは、その後の学びにもならず、社員の意識も高まらない。 これは必死に回避すべき。 コスト意識を凌駕する品質向上マインドが困難であるならば、起きた後のあり方をコントロールすべき。 これが回り回って品質向上につながる。 これも実現できなければ品質向上は見込めない。\n\n話が多少ずれるが、人間は、やった結果の失敗は後悔するが、やらなかったことへの後悔は薄いらしい。 しかし、これは歳を取り、人生の終わりが近付くと逆転するらしい。 なぜあれをやらなかったのだろうか?とやらなかったことを失敗と認識し後悔が強くなる。 品質管理もこのマインドでいきたい。 やらなかったことに後悔しないためにも、徹底的に品質管理について検討・実行する。 ただ、コストを意識させるパワーには負けてしまいがち。 従い、事故は起きるかもしれないが、事故が起きてしまったという失敗は失敗ではなく、将来の成功への学び、と認識し、公表し、批判も受け、将来の再発防止 (=成功) を実現する。

白熱電球を発明したエジソンは、具体的な数値は定かでは無いが、ものの本によると3万回やら5万回の実験失敗を経ても、なお失敗とは評価せずに、成功しないやり方が数多くわかったことという意味で成功で、次の実験成功の確率を高めた成功である、との主旨を発言したらしい。 何もしなかったことは失敗だが、行動した結果の失敗は失敗ではない。

ただし、許容できる失敗にも程度がある。 エジソンの失敗は他人に迷惑は無い (はず) 。 コスト意識もほどほどに。

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