経験 ≠ できる 想い = できる

「経験が無いからできない」と挑戦を回避したり、「経験したことがないからダメなんだよな、あいつは」とひとを批判したり、「経験者募集」で「経験があるから採用したのに…」と嘆いてみたり、「専門教育や大学も経験していないのにこんなことを成し遂げたとは」と専門教育を受けずに独学で一大事業を成し遂げた偉人を評価・驚愕したり、経験の有無が議論の軸となることが多い。 ビジネスシーンでも同様だ。“経験”という言葉はよく聞く。しかし、よく考えてみると“経験”とは何だろうか>

“経験”とは、時間だろうか? 回数だろうか? 時間も回数も少なくとも心にきざまれたインパクトだろうか? 時間や回数に関係なく次にどう活かすかを思考でき実行できる力のことだろうか? 辞書には、「実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。 また、それによって得られた知識や技能など」とある。 いずれにせよ曖昧だ。 ビジネスの世界で個人の“将来”を評価する際に利用するには特に曖昧だ。 それなのに“経験がある”と言う言葉は“将来もできる”と同意義になりがちだ。 具体的レベルでの議論がないにもかかわらず“経験がある”と“将来もできる”人材に格上げされ、逆に、“経験が無い”と“将来もできない”人材となる。 これは“経験”の持つ落とし穴だ。??

採用も、教育も、配置も、評価も、“経験”という言葉だけで判断するのは回避すべき。 より具体的なレベルでの“経験”から“できる”・“できない”を議論・判断すべきだ。 わかりきっていると思わずに具体的に何の経験の話をしているのが、より因数分解された細かいレベルで討議すべきだ。 ただし、まだ落とし穴がある。具体的なレベルでの討議で“経験あり”と判断され、それが正しいとしても、まだ“将来もできる”わけではないのだ。

厳しいプロスポーツの世界で頭角をあらわしたアスリートやヒットを連発するようになったアーティストには、それまでに1万時間の経験 (練習) があった、と考える“1万時間の法則”というものがある。 1日4時間練習して1年で1,450時間。 毎日練習した場合だ。 これを7年続けなければならない。 何がこうさせるのか。 答えはひとつ。 目標実現に向けた強い想いがそれだ。 つまり強い想いがあるから“経験”がスタートし、あるいはスタートは偶然かもしれないが、強い想いがあるから“経験”が持続し目標を実現するのだ。 「経験が無いからできない」との発言が、意図的な回避ではなく、自然に思考することなく発せられたとしたら、そのひとは一体何ができると言うのだろうか? 同様に、経験があっても、やる気がなければ“できない”。

更にもうひとつ必要な“できる”要素がある。 「物事を実現するか否かは、まずそれをやろうとした人が、“できる”と信じることからはじまる。 自ら“できる”と信じたときにその仕事の半分は終了している」。 これは、日本電産の永守社長の言葉だ。 目標実現への想いとできると自分を信じること。 最強の思考だ。 これらに支えられた経験でなければ意味が無い。 経験ばかりに目をむけず、想いにも目を向けなければ、ひとを見誤る。

そして、“できる”、“やりたい”、“失敗するかもしれないけど挑戦したい”と社員に想わせるシステムが会社には必要だ。 減点主義ではなく加点主義、チャレンジ評価、失敗を批判しないトップコミュニケーション、指導性の無い・思考の無い感情的な怒鳴りの排除、責任転嫁無き権限移譲、メンバー間の信頼・協力関係促進の仕組み、など。 弊社のお客様に参考となる会社がある。

最終消費者に不良品を届けたくない。 健康被害やケガなどは絶対に回避したい。 しかし小規模・小程度ながら思わぬ事故が起きてしまうこともある。 新事業への取り組みの中での工場のアンコントロール、チェックすべき品質ポイントの抜け漏れ、圧倒的なスピード感でのビジネスなどが原因だ。 「“経験”がないからだ」なんて第三者から言われる。 問題山積みだ。 しかし、“自分たちは高度な品質管理システムを構築するんだ”、“自分達はできるんだ”という想い、メンバー間の信頼・協力関係がこのお客様からは伝わる。 我々も何をしてでもこのようなお客様も必死でサポートしたい、と思う。

想いがあれば成し遂げられる。 自分はできないと思えばそこまで。 あきらめたらそこまで。 明日できるかもしれないのに今日やめたらそれまで。 こういう強い想いが感じられるお客様と日々接すると、商品検査サービスを提供する我々も常に身が引き締まる思いだ。

来年も皆様とタッグを組んで、“価値ある検査サービスを提供したい”・“できる”という想いで一層努力していきたい。

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