ルールは守るもの? 破るもの?

Hand writing inscription Break the rules with marker, concept

社会にインパクトを与え、人々の思考や行動、生活を進化(変化?)させたり、より豊かな生活を生み出した偉人は、その道の素人であったり独学であったりしたために、過去のその道の一般的なやり方に精通していなかったことによる“常識”外の発想ができたから、という類の話はよく聞くところ。 確かにそうだと思う。 賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ、という主旨の名言はドイツの政治家のビスマルクによるものらしい。 自分の経験に囚われず、より広く他者の経験・他業界の経験、繰り返えす歴史から学び、自分の経験という常識を疑う、というような示唆もあるのか。

日本が自動車やエレキで世界を席巻していた時代、「Japan As No.1」の時代、日本のケイレツ関係が強い業界をつくるに理由ではないかと言われていた時代、阿吽の呼吸でアセンブルメーカーとパーツメーカーが設計図・仕様書などには記載されない、現場で発見されるより良いものに高度化できるチャンスを見逃さず前向きなマイナー修正を重ね、よりよい製品を積極的・自発的・柔軟的に、書面定義外・契約外の対応で製造し、それが強さの源泉のひとつ、というような話があった。 海外パーツメーカーに設計図・仕様書などの書面定義を渡し、同じように作ってもらっても、最終品が同等品質にならない、なぜならこの自発的・柔軟的なマイナー修正が書面には反映されていないから、といった話。

現場で臨機応変というマインドが良いものとされている。 確かに良い物だと思う。 概念的だが、100%確実で動き出すことなどビジネスではありえない。 マイナー修正・完全修正・撤退もよくある話。 よくあることにはしたくないし、しないという強い思いでやるべきではあるが…。

品質サービスを提供していると、当然関連する法律はたくさんあるがグレーなこともあり、実際に法律違反で世の中に出ているものもある。 現実的に消費者が困らないこともあれば、事故の可能性を内包しておりいち早く回収すべき、というレベルまで。 いずれにせよルール(法律、JIS、業界基準、自社基準、相対の合意事項…)に対して、誤解、意図的な違う解釈、より良い内容へと現場で勝手に変更、意味がないからと踏襲しない、など、知らないことによる抜け漏れではなく、知っている後での故意的な(よく言えば柔軟的ともいえるが)理解・対応で“ルールを守らない”現実が起きている。

2017年12月時点で最近起きている重工業(自動車、鉄鋼、化学)の不祥事(?)も類似性が感じられる。 各ケースによってはもしかしたら現実的な製品品質としての本質的な被害は供給先・消費者にはないという可能性もあり得なくはないが、ルール違反はルール違反であり、購入している側にとっては大問題。

一過性と思っていたが、繰り返され、故意的・柔軟的な理解・対応で“ルールを守らない”現実が新たな現実=ルールを生みだし、それがめんめんと踏襲される。

ルールを破ることは自社なのか、ビジネスパートナーなのか、クライアントなのか、社会なのか、地球なのか、誰か・何かに対して良い結果を生むことは当然あるだろう。 常識・世間体・過去の踏襲だけでは人間の進歩は変わったものになったはず。 ただし、ルールを破ったことを/破ることを関係者で共有し、合意するステップがビジネスでは必要なのだろう。 そこに時間・費用などの非効率性があると黙って進んでしまう。 ルールに拘り柔軟性を失うと新しい現実を生み出すことができなくなりがち、というのは正しい一面。 ルールは破るものというマインドを持ちながら、破るときは関係者と共有しそれ以外のよりよい選択肢がないが英知を集めて議論するというルールは守るべき、であり、ルールを変えるコストがなるべく低くしようというマインドも共有したい、などと考えたりする2017年暮れ…。

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